Masukあの一件。
後に、王立アカデミーの歴史に『インクテロ事件』と記されることになる(非常に不本意ですわ!)大騒動の翌日。 当然ながら、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。「――つまり、これは一体、どういう類の茶番なのだ?」
シュタウフェン王朝の現国王は、深く皺の刻まれたこめかみを、指でさすった。呆れと、ほんのすこし、面白がる響きを乗せて。
王の執務室にある机上は、さながら三竦みの戦場と化していた。
王太子バージルからの、若さゆえの怒りに満ちた緊急報告書。 宰相シューベルト侯爵からの、血すら滲もうかというほどの筆圧が強い激烈な抗議文。 そして、シャーデフロイ伯爵から届けられた“お見舞い”と称する、極めて丁寧かつ、慇懃無礼な書簡。 三者三様の文書が、事件の複雑怪奇さを物語る。「報告書の通りです、父上」
父王の前に立つのは、いまだ悔しさと屈辱に強張らせるバージルだった。
一睡もできなかったのか、目元は痛々しいほどに赤い。「あの女。……ベアトリーチェ嬢が、公衆の面前で私にインクを浴びせかけ、事実無根の言いがかりでシューベルト侯爵家を貶めたのです。断じて許されることでは――」
「だが、事実無根とやらを、誰が証明できる? 警護に、致命的な隙があったのも事実であろうが」 「それはっ! しかし、あれは明らかに意図的な嫌がらせでっ!」 「そうだとして、だ。シャーデフロイの令嬢に何の利がある? 国母となる栄誉を目前にした娘が、わざわざお前にインクをぶちまけて、どんな得があると申すのだ」剃刀の如き問いに、バージルは言葉を詰まらせる。
「それは……私には考えられません。あれは言ってしまえば、狂人の行い。そう、正気の沙汰とは思えません」
「そうか? わしには、そうは思えんがな」国王は、シャーデフロイ伯爵からの手紙。
その封蝋を小指の爪でカリ、と弾いた。翼を持つ毒蛇と|ジェンシャン《リンドウ》の花。「『この度の件、娘が殿下にご心酔申し上げるあまり、常軌を逸した行動に出ましたこと、平にご容赦を。つきましては、お詫びの印に、我が家の秘蔵のワインと“警備強化のためのささやかな情報”を献上いたします』だと。ウェルギリめ、どこまでも食えん男よな」
ビーチェの凶行を「盲目的な恋慕のせい」とすり替え、その上でちゃっかりと貸しを作りに来る。
あまりに対応が早すぎる。計画的と見るのが当然だった。「一見、利がまるでない。だからこそ『お前のために汚名を着てでも、不備を警告した』という、悲劇的美談が成立してしまうのだ。愚か者め」
「ベアトリーチェ嬢は、一片たりとも、私にそのような感情を抱いているはずがありません!」 「そう、それだ」王は、人差し指を立てる。まさしく、それこそが隙だったのだ、と。
「少々、お前は婚約者を公然と突き放し過ぎたな。無下に扱われ続けた哀れな娘が、愛ゆえに己を顧みず殉教した……などという物語は、社交界のグールどもにとっては極上の蜜だからな」
「……ぐっ」事実よりも、面白い物語が勝つ。それこそが社交界という戦場。
婚約者をないがしろにした上に、悲痛な訴えを罰したとなれば、王家の権威に傷がつく。「女の扱いを覚えろ、バージル。お前はあまりに硬く潔癖すぎる」
「この私に、令嬢に媚びへつらい、腹の内を探れとでもおっしゃいますか!?」 「フム、それが有効ならそうしろ。女一人扱えぬ者が、群れである国家を動かせようはずもないのだ。知らんのか? 国民の半数は女だぞ」父からのあまりの物言いに、バージルは顎をあんぐりと開けてしまった。
「まあ、よい。結果として、宰相派は身動きが取りづらくなった。王都の貴族たちは、改めてシャーデフロイ家の不気味さと、お前とあの家との繋がりを目に焼き付けた。これもまた事実だ」 「では父上は、あの女の蛮行を許すと!?」 「許す、許さぬの話ではない。カードの遊戯とでも思え。シャーデフロイは、とんでもない|奇策《ジョーカー》を場に切ってきた。我らも、次の一手を考えねばならん、ただそれだけのことよ」悔しげに唇を噛む息子を一瞥し、王は「下がれ」とだけ命じた。
とぼとぼと下がる失意の背中を見送り、一人残された執務室で、王は愉しげに口の端を歪める。「フフ、バージルにとって、良い薬になったであろうか。あれはまだ、人の機微、策略の汚濁を知らぬ」
面子は潰されてはならぬが、見栄えの良い痛み分けは度量として許される。常に勝ちを狙うのは、政治においては定石ではない。
「手札が悪い時には、いかに美しく負けるかを考えねばならんというのに。百度勝負して、百度勝てる手札など、神でもない限りありえんのだ」
宰相シューベルト侯爵からの、抗議文に目を留める。
ここまで激情を露わにした奴の文字は久々に見た。おそらく、本当に何も知らなかったのだろう。とても愉快だった。「だが、シューベルトにとっても疑心暗鬼の種は蒔かれたな。預かり知らぬところで、息のかかった者たちが何を企むか分からぬ、となれば、自陣の引き締めをせざるを得ん。……実に、見事な牽制よ」
しかし、厄介だ。宰相派とシャーデフロイ派を争わせるつもりが、片方に肩入れした形になってしまった。天秤が崩れかけている。
「ベアトリーチェ、か。ウェルギリの娘め、ただの狂人のはずがなかろうな。あの老獪な蛇が、何の仕込みもなく、娘を放し飼いにするはずもない。一体、何を考えている?」
そこで王は、ふと、思考を止めた。
シャーデフロイ伯爵からの手紙に添えられていた、ささやかな情報。それを読み返せば違和感。「否。そもそも手筋が……いつもの奴と違う、のか?」
王は、それがもたらす厄介さへの警戒を抱きつつも、老いた心に宿る闘争心に、未知への刺激が灯るのを感じていた。
恐らくこのゲームには、まだ把握できぬ何かがいる。「ですが……なにかの偶然という可能性はありませんか。たまたま本が落ちて、誰かが並び替えたとか。そう、それこそイタズラ、とか……」「信じたくないのはよくわかる。だが、ありえん。この状況下で、そんなイタズラをする馬鹿がどこにいる。私が、襲撃の報を聞いて、席を外した、ほんの僅かな間だぞ」「そう、ですね。……確かにタイミング的に、イタズラはありえない。しかし、だとすると……」 ローラントの顔が、絶望に染まる。 そうだ。即席の思い付きでは、ありえない。私の本棚に、どんな本があるかを把握してなければ、こんな真似は早々できんのだ。 故に、より恐ろしさが際立つ。「ですが、殿下。もしこれが、黒幕からのメッセージだとしたら、あまりに不可解です。なぜ、自分たちの標的を、わざわざ教えるような真似を?」「……わからん。だからこそ、不気味なのだ」 とんだ挑戦状だ。資料を焼いたうえで、この私に向かって、堂々とベアトリーチェ嬢を狙っていると、アピールしてくるとは。 もはや、「いつでも、貴様の身の回りの誰かを手に掛けられるぞ」と脅迫されているに等しい。頭に浮かぶ……大切な人々。「クク、ククク……。面白い」 不意に、乾いた笑いが、私の口から漏れた。 ああ、怖くてたまらない。怖いさ、たまらないとも! だからこそ、“僕”はシュタウフェン王家の次期後継者として、強く、振る舞わねばならなかった。「受けて立つぞ、正体不明の黒幕よ。このバージル・ファン・シュタウフェンが、この程度の揺さぶりで臆するとでも、思っているのならば――」 “僕”は自らを奮い立たせるように、そう宣言した。 それこそが、皆が、この国の未来を担う者に、求める姿なのだから。「必ず、後悔させてやるっ!」 臆病者には、誰も付いてこない。だから、“
「してやられた、な」 されど、そう悲観することもないかもしれない。 ともすれば、これは私が真実に近づいている証左なのではないだろうか。 少なくとも、“黒幕”はそう恐れた。私という男を。そう考えれば、この胸の屈辱も、少しは――。「……などと、思わねばやってられんな」 虚勢だ。吐くのは、自嘲のため息。いずれにせよ、ここにあった事件の調査資料は、灰燼に帰した。 まさしく、犯人の思い通りになってしまった訳だ。(ならば、シャーデフロイ邸への襲撃は、陽動だったのだろうか?) いや、待て。犯人のもう一方の目的は、この私自身の暗殺だったようだ。 ならば、奴らにとって、“標的の王太子バージル”がここにいなかったことは、予想外だったのではないか。 そうだ。だとしたら……、まだ、“僕”は負けてない。 思考が、すぅっとまとまり――ふと、見上げたそこには、本棚が。「バージル殿下?」 動きを止めた私に、ローラントが心配そうに声をかけた。 だが、今はそれどころではない。本棚の配列が、変わっている。太陽への道、通商勅令、ある若き騎士の迷い、聖オットーの双王国年代記……。「……ローラント」「はっ」「私に、シャーデフロイ家襲撃の報を知らせ、この研究室から連れ出したのは、お前だったな?」「はい、もちろんでございます! ……それがなにか?」「ならば、信じるとしよう」 おそらく、ローラントは“白”だ。彼の忠誠心は疑いようもないだろう。 だが、他の騎士は? このアカデミーにいる、ありとあらゆる人間は?「バージル殿下。いったい、なにを……」「静かにしろ。壁に耳あり、だ」 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ローラントは息
私は、この不吉な艶やかな黒に、目を細めた。紫がかった妖艶な色彩に。「これも、あえて残された、のか?」「……おそらくは」 もはや、不可視の戦争。そんな渦中に、知らぬうちに巻き込まれている。 どんな仮説を立てても、決定的な証拠に、何も至らない。「殿下。他の場所でも、同様の戦闘痕が、複数発見されております。この痕跡は、道しるべのように……王立アカデミーの方角へと、続いておりまして」「なんだと?」 ますます、面倒なことになった。 我々は、何者かの手によって、誘われているのだ。 あらゆる情報が、先程まで我々がいたはずの、あの場所へと、導いていく。「……行くぞ」 辿りついた図書館。司書に確認を取れば、判明する不自然な|魔術警報《セキュリティ》解除。 それは己のいた区画、第7書庫。そこを担当しているはずの、司書補ルチア。 まさか、と思った。いるかもしれない。険悪な関係の……我が婚約者が。なぜかそんな予感がした。「――二人とも、無事かっ!」 急いだ先に広がっていたのは、信じがたい光景。 床に転がる、さらなる賊、四人。 そして。「ベアトリーチェ……嬢。それに、ルチア」 目に飛び込んだのは、およそ現実とは思えないちぐはぐな絵図。 片や、涙目でぶるぶる震え、立ちすくむ令嬢。 片や、頬に血糊をつけたまま、穏やかに微笑む、もう一人の令嬢。「これは、一体、何があったんだ?」 思わず、唖然としながら投げかけた問い。 二人は、顔を見合わせると、こう答えた。「「そこに悪い人がいましたので……?」」 まるで示し合わせたような言い訳に、覚えた眩暈。 ――これはきっと、疲労が見せた幻覚に違いない。***
あれは、嘘偽りなき真実なのだろう。 私はそう思った。 “一人の父親として、ただただ娘の身を案じております” 走り書きされた文字には、父親の悲痛な思いが滲んでいたように見えた。 だからこそ、だ。シャーデフロイ伯爵邸に駆けつけた時、目の前に広がる光景に、己の思考が凍りいたのは。 門は、半壊。巨大な獣がこじ開けたかのように、へしゃげて。 かつて、寸分の狂いもなく整えられていた庭園は、いくつものブーツ跡で踏み荒らされ、魔術によって焼け焦げていた芝生が異臭を放つ。 ――戦闘は、あったのだ。間違いなく。それも熾烈なものが。 甲冑を着た衛兵たちが、負傷した仲間を運び出し、怒号に似た声を張り上げる。 だというのに。「これはこれは、殿下。……こんな夜分に、お早いことで」 館の大扉から、悠然と現れた当主ウェルギリ伯は。 今しがた、極上の一瓶を開けたところだと言いたげに、ブランデーグラスをゆるり揺らしていた。 背後では、メイドたちが、ガラス片を手慣れた様子で片付けている。そう、淡々と。日常の一環のように。 箒が掃く、サッサッ、という乾いた音。(伯どころか。使用人たちの、この落ち着きよう。この異常事態に、まるで動揺していない。……これは、なんだ?) 違和感を飲みこんで、私は尋ねた。「……どういうことだ、伯爵。一体、何があった」「なあに、文でお知らせしたとおりです。小うるさい羽虫が、騒いでいただけのこと。既に、叩き潰しましたゆえ、御安心召されよ」「だが、そなたからの報せでは……令嬢がっ!」「おお、左様。それについては、誠に、そう、誠に困っておりましてな。いやはや、どうしたものか、と」 そこにいるのは、愛娘の危機に動転する父親では、断じてなかった。 平時と何ら変わらぬ、悠然とした『翼ある蛇』……父王が警戒して止まぬ、辺境の
ガタン、ゴトン。石畳を駆ける車輪の音が、やけに頭に響くわ。「……で?」 向かいの席に座る、我が腹黒執事に向かって、わたくしは非難の声を上げた。「で、とおっしゃいますと?」「どこで油を売っていたのよっ! わたくしが、どれだけ大変な目に遭ったと思っているの!? 危うく、人生が、終わるところでしたのよ!?」「逆に、こちらもお聞きしたいのですが。待つようお伝えしたのに、なぜ、殿下の研究室から、わざわざご移動しようと?」 ……沈黙。 あ、これ、知ってるわ。わたくしの軽率な行動を、ねちねちと責められるパターンのやつだわ、あわわわわ!?「あー。……まあ、今回は、特別に、大目に見て差し上げてもよくってよ?」「まさかお嬢様は“待て”すら出来ない、やんちゃなお子ちゃまでいらっしゃいましたか?」「違うもん! あなたが、あまりに遅かったのが悪いんだもん!」「結果として。お嬢様の行動は、王立アカデミー附属図書館の|魔術警報《セキュリティ》に穴を開けたと同義なのですが、ご自覚は?」「はうっ!?」 そうなのよ。わたくし、隠し通路から、脱出しようとした訳だけれど……。 なぜか、区画の警備魔術が、一時的に、ごっそり解除されてしまっていたんですって!「あれって……やっぱり。わたくしの、せい、かしら?」「他にあるわけがないでしょう。おそらくは、王族の緊急避難通路を、不用意に起動した不具合でございますね」 スパッと言い切られた。うぐぐぐっ。「襲撃犯たちは、お嬢様の作った穴をまんまと利用し、殿下の研究室へ辿り着いた、と。よくぞまあ、侵入者を“手招き”しておいて、皆様にバレずに済んだものですね?」「いやぁあああっ! 言わないで、イヅル! なにも聞きたくないぃぃぃっ!」 ああっ、すべてが――わたくしのやらかしっ! 幸い警備体制を解除
ルチアは、スティックに付着した血を、悪漢の服で雑に拭うと。 何事もなかったかのように、カチリ。それを腰に差した“杖の隣”へと、何事もなかったかのように、収納した。 杖との二本差し。つまり、あれは……折り畳み式の、対人魔術兵装。「ベアトリーチェ様! お怪我は、ありませんでしたか」「ひゃ、ひゃい! わ、わたくしは、だ、大丈夫ですけれど!?」 ぱたぱたと駆け寄ってくるルチア。 わたくしは恐怖のあまり、後ずさることしかできない。 だって、怖い! この子、どう考えても、わたくしより、あの魔獣より、ずっと、ずっと、怖い!?「え、でも。顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか?」 わたくしの手を取り、心配そうに、顔を覗き込んできた。どの口が言ってるのかしら、あなたは?! でも、こくこくと、頷くことしかできなかった。「ふぅー、結構、いい運動になりましたね! あ、そうだ。司書さんに報告しなきゃ」 「うぎゃー」とさらに、どこからか新たな悲鳴が聞こえてくる。バージル殿下の研究室からだった。「あー。まだ、侵入者さんいたんですね。……一度、|魔術警報《セキュリティ》に検知されたら、図書館に住み着いている“知識のゴースト”さんたちに、魂吸われちゃうのに。あーあ、かわいそう」「かわいそうって!? この図書館、危険地帯過ぎませんこと!?」「そりゃ、国家の重要研究機関に付属する、機密書庫なんですから」 当り前でしょう、とルチアは首を傾げる。 わたくし、なんて恐ろしいところに忍び込んでいたのかしら。色んな意味での恐怖が、今さら、どっと伸し掛かってくる。「でも。ちゃんと、お約束、果たせてよかったです。ベアトリーチェ様にも、お父様にも」「あなたのお父様じゃありませんことよ?」 機嫌よさそうにニコニコするルチア。いいから、頬の返り血を拭いてちょうだいよ。 さっきまでの、戦いっぷりは幻覚だと思いたいけれど、証拠が目の