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第8話 王はカードを、子は正気を語る

last update Date de publication: 2025-10-01 06:07:10

 あの一件。

 後に、王立アカデミーの歴史に『インクテロ事件』と記されることになる(非常に不本意ですわ!)大騒動の翌日。

 当然ながら、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

「――つまり、これは一体、どういう類の茶番なのだ?」

 シュタウフェン王朝の現国王は、深く皺の刻まれたこめかみを、指でさすった。呆れと、ほんのすこし、面白がる響きを乗せて。

 王の執務室にある机上は、さながら三竦みの戦場と化していた。

 王太子バージルからの、若さゆえの怒りに満ちた緊急報告書。

 宰相シューベルト侯爵からの、血すら滲もうかというほどの筆圧が強い激烈な抗議文。

 そして、シャーデフロイ伯爵から届けられた“お見舞い”と称する、極めて丁寧かつ、慇懃無礼な書簡。

 三者三様の文書が、事件の複雑怪奇さを物語る。

「報告書の通りです、父上」

 父王の前に立つのは、いまだ悔しさと屈辱に強張らせるバージルだった。

 一睡もできなかったのか、目元は痛々しいほどに赤い。

「あの女。……ベアトリーチェ嬢が、公衆の面前で私にインクを浴びせかけ、事実無根の言いがかりでシューベルト侯爵家を貶めたのです。断じて許されることでは――」

「だが、事実無根とやらを、誰が証明できる? 警護に、致命的な隙があったのも事実であろうが」

「それはっ! しかし、あれは明らかに意図的な嫌がらせでっ!」

「そうだとして、だ。シャーデフロイの令嬢に何の利がある? 国母となる栄誉を目前にした娘が、わざわざお前にインクをぶちまけて、どんな得があると申すのだ」

 剃刀の如き問いに、バージルは言葉を詰まらせる。

「それは……私には考えられません。あれは言ってしまえば、狂人の行い。そう、正気の沙汰とは思えません」

「そうか? わしには、そうは思えんがな」

 国王は、シャーデフロイ伯爵からの手紙。

 その封蝋を小指の爪でカリ、と弾いた。翼を持つ毒蛇と|ジェンシャン《リンドウ》の花。

「『この度の件、娘が殿下にご心酔申し上げるあまり、常軌を逸した行動に出ましたこと、平にご容赦を。つきましては、お詫びの印に、我が家の秘蔵のワインと“警備強化のためのささやかな情報”を献上いたします』だと。ウェルギリめ、どこまでも食えん男よな」

 ビーチェの凶行を「盲目的な恋慕のせい」とすり替え、その上でちゃっかりと貸しを作りに来る。

 あまりに対応が早すぎる。計画的と見るのが当然だった。

「一見、利がまるでない。だからこそ『お前のために汚名を着てでも、不備を警告した』という、悲劇的美談が成立してしまうのだ。愚か者め」

「ベアトリーチェ嬢は、一片たりとも、私にそのような感情を抱いているはずがありません!」

「そう、それだ」

 王は、人差し指を立てる。まさしく、それこそが隙だったのだ、と。

「少々、お前は婚約者を公然と突き放し過ぎたな。無下に扱われ続けた哀れな娘が、愛ゆえに己を顧みず殉教した……などという物語は、社交界のグールどもにとっては極上の蜜だからな」

「……ぐっ」

 事実よりも、面白い物語が勝つ。それこそが社交界という戦場。

 婚約者をないがしろにした上に、悲痛な訴えを罰したとなれば、王家の権威に傷がつく。

「女の扱いを覚えろ、バージル。お前はあまりに硬く潔癖すぎる」

「この私に、令嬢に媚びへつらい、腹の内を探れとでもおっしゃいますか!?」

「フム、それが有効ならそうしろ。女一人扱えぬ者が、群れである国家を動かせようはずもないのだ。知らんのか? 国民の半数は女だぞ」

 父からのあまりの物言いに、バージルは顎をあんぐりと開けてしまった。

「まあ、よい。結果として、宰相派は身動きが取りづらくなった。王都の貴族たちは、改めてシャーデフロイ家の不気味さと、お前とあの家との繋がりを目に焼き付けた。これもまた事実だ」

「では父上は、あの女の蛮行を許すと!?」

「許す、許さぬの話ではない。カードの遊戯とでも思え。シャーデフロイは、とんでもない|奇策《ジョーカー》を場に切ってきた。我らも、次の一手を考えねばならん、ただそれだけのことよ」

 悔しげに唇を噛む息子を一瞥し、王は「下がれ」とだけ命じた。

 とぼとぼと下がる失意の背中を見送り、一人残された執務室で、王は愉しげに口の端を歪める。

「フフ、バージルにとって、良い薬になったであろうか。あれはまだ、人の機微、策略の汚濁を知らぬ」

 面子は潰されてはならぬが、見栄えの良い痛み分けは度量として許される。常に勝ちを狙うのは、政治においては定石ではない。

「手札が悪い時には、いかに美しく負けるかを考えねばならんというのに。百度勝負して、百度勝てる手札など、神でもない限りありえんのだ」

 宰相シューベルト侯爵からの、抗議文に目を留める。

 ここまで激情を露わにした奴の文字は久々に見た。おそらく、本当に何も知らなかったのだろう。とても愉快だった。

「だが、シューベルトにとっても疑心暗鬼の種は蒔かれたな。預かり知らぬところで、息のかかった者たちが何を企むか分からぬ、となれば、自陣の引き締めをせざるを得ん。……実に、見事な牽制よ」

 しかし、厄介だ。宰相派とシャーデフロイ派を争わせるつもりが、片方に肩入れした形になってしまった。天秤が崩れかけている。

「ベアトリーチェ、か。ウェルギリの娘め、ただの狂人のはずがなかろうな。あの老獪な蛇が、何の仕込みもなく、娘を放し飼いにするはずもない。一体、何を考えている?」

 そこで王は、ふと、思考を止めた。

 シャーデフロイ伯爵からの手紙に添えられていた、ささやかな情報。それを読み返せば違和感。

「否。そもそも手筋が……いつもの奴と違う、のか?」

 王は、それがもたらす厄介さへの警戒を抱きつつも、老いた心に宿る闘争心に、未知への刺激が灯るのを感じていた。

 恐らくこのゲームには、まだ把握できぬ何かがいる。

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